さくら子

日本(ひのもと) さくら子です。 国難を乗り越え、美しい日本を取り戻す「モデル都市建設」に挑戦中です(*^_^*)v (アメブロでアカウント削除(BAN)によりこちらにお引越ししました(^-^)♪ )

カテゴリ:◆愛情主義~日本、大好き > 正統史観

81年前の12月8日は日本が真珠湾を攻撃した日です。

我欲主義・米国の戦い方

当時アメリカが日本を執拗に追い詰める様子を、身近で見ていたのが

ルーズベルト大統領の娘婿であったドール大佐です(後に離婚)。

彼は開戦前のルーズベルトの様子を次の様に語っています。

ルーズベルト大統領の娘婿ドール大佐 「ホワイトハウスで1941年11月25日に開かれた運命的な会議の記録(日本にハル・ノートを突きつける事)を読み返して見て

私の以前の岳父、ルーズベルト大統領及び彼の側近たちの戦略は(日本との)平和を維持し、保障することではなく、

事件を組み立て、あるいは引き起こさせて、アメリカを日本との戦争に巻き込むという陰謀にもっぱら関わっていた
と、私は悟ったのです。

それを知って私の心は張り裂けんばかりでした。

これは『裏口』からヨーロッパの戦争に入ることを可能にする計略でした。」

「アメリカ国民は日本との戦争を欲していなかったことを彼(ルーズベルト)は十分に知っていて

それゆえにこそ、あらゆるコストを払っても戦争をアメリカ国民の頭上に押し付けなければならなかった。

かくて欺瞞に満ちた諸々のことが舞台に入り込み、アメリカ国民の激しい怒り、

感情的爆発を起こす『事件(真珠湾攻撃)』を
創作することが必要となったのです。

そこでこの怪しげなマントが、巧妙に日本人の肩に掛けられなければならなかった。」


…つまり真珠湾攻撃の『シナリオ』を “創作” したのはアメリカ
と大統領の元娘婿は認識していたと言えます。

そういえば先日、伊藤貫氏のお話によりますと真珠湾攻撃の4か月前の1941年8月末

ルーズベルト大統領は、カナダ・ニューファンドランド諸島沖合のプリンスオブウェールズでチャーチル首相と会談し、チャーチルに対してこう言ったとのことです。
 『奇襲』である筈の真珠湾攻撃の4か月前のセリフです。

「日本を叩きのめした後は、日本を二度と軍事力の持てない国にする」


要するにアメリカが描いたシナリオにはこの時既に

日本を戦争に引きずり込むという筋書きが、もう出来上がっていたのです。

そもそもハルノートは1941年の5月、既にハリー・ホワイトにより起草されていました。

11月にハルノートを突きつけた半年前には出来上がっていた。

日本を戦争に巻き込みたいアメリカは、

「こういう条件(ハルノート)を日本に押し付ければ日本の選択肢は戦争しかなくなるだろう」と。
更に…
1942年6月、アメリカは大東亜戦争後にどの様に占領するか「日本プラン」を作成しています。
一九四二年六月三日付米国陸軍省軍事情報部(MIS)心理戦争課「日本プラン(最終草稿)」

これによりますと
戦後日本の天皇制存続は、開戦直後から米国の基本戦略に含まれていました。

 (『世界』2004年12月号より)

以上がアメリカのシナリオです。

愛情主義・日本の闘う精神
松岡洋右日本精神を世界に徹底さす 02

我欲主義国家に対し、我が国の闘い方はこうでした。

(以下、GHQ焚書図書「米國の世界侵略」から)

米国の世界侵略 大東亜戦争調査会GHQ焚書図書『米国の世界侵略』大東亜戦争調査会(42頁)

何よりも先ずユダヤの悪魔性を認識することが大切である。

日独伊三國同盟の前文において、 万邦をして所を得しむることが世界平和の前提条件である事を謳っている。

これは八紘一宇の日本肇国の皇謨(こうばく)に出るものであって、 この前文は一言一句日本側が作成し、独伊はそのままこれを受け入れたものである。

当時賜った詔勅にも、はっきりと万邦をしてその所を得しめ 兆民をしてその緒に安んぜしめる肇國の御精神が仰せだされている。

三國の協力によって作り出されるべき世界の新秩序が、 その根本の精神を日本肇國の神業に汲むことによって明白にされている。  

これに反して敵米英の戦争目的は何であるか。

それは、ユダヤの理念たる金権制覇以外の何ものでもない。

他民族を呪い、ユダヤ民族のみをいわゆる神選民族として神が特別の恩寵を垂れ、 その非ユダヤ民族制圧の野望に対して加護を与えるという
ユダヤの極めて利己、下賎なる理想こそは、

今日、米英戦争業者の戦争目的と完全に一致しているところである。
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本来の日本を取り戻しましょう!
アメリカ虜囚からの 祖国奪還



(2014年からフェイスブックで毎年11月6日に投稿している「大東亜会議」です)
----- 我々の祖先が目指したもの ----- 
◆大東亜会議「大東亜共同宣言」1943年11月6日
19431106 大東亜共同宣言_大東亜会議
======================= 
「大東亜共同宣言」の存在は戦後意図的に隠されてきた。
属国日本では教科書もマスコミも伝えない。

大東亜戦争の『真の原因』を知られては不都合な我欲主義勢力は
己の悪事を正当化し、日本を悪者にしてきた。
「彼ら」にとり決して知られては困る歴史の真実、この大東亜共同宣言を、
焚書図書から見てゆきます。

今なお、彼らは歴史の真実が暴かれる事を恐れています。
以下、国立国会図書館の資料より
19431106 大東亜共同宣言1
19431106 大東亜共同宣言2序
19431106 大東亜共同宣言3自序
19431106 大東亜共同宣言4 目次
19431106 大東亜共同宣言5 第一章大東亜会議の世界史的意義
つづき2ページ以降は国会図書館HPでお読みください。



大東亜会議の調書はコチラから↓
https://www.jacar.archives.go.jp/acv/contents/pub/pdf/B02/B02032957900.ba0168a.a-1211.00000167.pdf

---現代語---

【大東亜会議共同宣言】昭和18(1943)年11月6日
(現代語)
世界各国が、民族毎に自分たちの土地を持ち、お互いにたすけあって、ともに国家として発展し、みんなで明るく楽しみをともにするためには、まず世界平和の確立がその根本です。
けれども米英は、自国の繁栄のためには、他国や他の民族を無理矢理押さえつけ、とくに東亜諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、東亜諸国の人々を奴隷するという野望をむきだしにし、ついには東亜諸国の安定そのものを覆(くつがえ)そうとしています。
つまり、東亜諸国の戦争の原因は、そこにその本質があるのです。
そこで東亜の各国は、手を取り合って大東亜戦争を戦い抜き、東亜諸国を米英の押さえつけから解放し、その自存自衞をまっとうするために、次の綱領にもとづいて、大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与します。

1 東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、同義に基づく共存共栄の秩序を建設します。
2 東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国の親睦を確立します。
3 東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜諸国それぞれの文化を高めあいます。
4 東亜諸国は、互いに緊密に連携することで、それぞれの国家の経済の発展を遂げるとともに、東亜諸国の繁栄を推進します。
5 東亜諸国は、世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いによく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献していきます。
=====================
19431106 大東亜宣言







パール判事 
パール判事が言われた通り、アメリカは自分達の悪辣な行為を正当化するには日本に全ての責任を転嫁し、日本人に罪悪感を深く植え付ける必要がありました。
その為にGHQが行った姑息な占領政策の一つ、それは連合国側にとり不都合な真実を隠す等の目的で、日本の書籍に綴られた真実を『焚書』しなければならなかったのです。
GHQが焚書した貴重な日本の書籍 7769冊
焚書 没収指定図書

これについて西尾幹二先生が過去200回ほど動画で解説して下さいました。
GHQ焚書図書開封 第一回 ABCD包囲網の悪辣性と対米開戦の必然性

ABCD包囲網について日本側は、全て知り抜いていた。

相手の兵力までも細かく。

大切な点は、この対日包囲網が持っている手強さと、強固さと、

それが持つ恐ろしさを日本政府は知っていたという事です。

この包囲網が如何に堅牢としたものであるかを百も承知しておりながら、

日本人は実に悠然と構えていました。

 

当時、日本側に怯えがありません。

「四つに組んで堂々と戦うぞ!」という覚悟があります。

しかも余り興奮もしていない。

 

この本は昭和18年(1943年)に出ているのですから

戦争たけなわでした。

しかも当時の包囲網の実態を、軍事力や配列など全てつぶさに調べていました。

よく観ていた。リアリズムなのです。

敵を見くびっていません。

全く正反対です、傲慢にやっているのではないのです。

「勝てないと分かっている戦争に、自暴自棄になって飛び込んで行っている」
わけではないのです。

そのどちらでも無い事が、この文面から伝わってきます。 

合理的で、戦略的で、現実的な目で書かれているのです。

 

それでいて、事柄の困難さをよく見抜きながら「遣らざるを得ない」と言っているのです。

 

この時の心の強さは謎であります。

しかしそれは歴史の現実として、

私たちの過去にあった事実として動かないのであります。

これを軍国主義であるとか、私たちの犯罪の歴史だという事は、微塵も私は考えておりません。


歴史は、起こるべくして起こった必然の流れの道を歩んで滔々とここへ来た。


以下、GHQ焚書図書から、ABCD包囲網について

「米英挑戦の真相」大東亜戦争調査会研究報告書(発行1943年6月1日)

米英挑戦の真相

 「対日包囲網の悪辣性」259頁より

■国立国会図書館

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459212
上の動画で西尾幹二先生が読み上げて下さっています。(45:10-)

焚書図書 1焚書図書2焚書図書3

(以下、文字おこし)

米国が日露戦争直後より今次開戦直前に至るまで、或いは排斥、或いは圧迫、果ては弾圧など、我が国に加えた侮辱と非礼とは、世界四千年の国交史に稀なるものであり、また英国が明治維新前後より日清戦争まで、そしてワシントン会議より今次開戦直前まで我が国に対してとった態度も、これまた米国と何れか鳥の雌雄を知らんやの類で、ただ米国の如き暗愚下劣なる露出症的態度でなかったというに止まる。過去幾多の英米の対日外交振りを見れば、その内容の暴慢なるは勿論、その態度や傲岸、その言辞や横柄、なすところは悪辣非道筆舌を以て形容し難きものがあり、顧みて、よくもわれわれの先輩はこれを堪忍して来たものだと、その自重の裏に潜む萬斛(ばんこく)の血涙を、そぞろに偲ばざるを得ない程である。

 

かかる米英の対日非礼史、侮日史は他の分冊に譲って、ここには単に軍事上から、この対日包囲陣の持つ戦略的敵性を指摘するに止めよう。これほどの悪辣なる戦略は、歴史上未だかつてなかったと敢えて断定して憚らないのである。

 (この言葉の背後にある事情は本全体を参考にしてください)

彼等が我が国を軍事的に包囲するに先立って、我が国をまづ外交的に孤立無援にしてしまおうと企図したこと、この外交包囲にも満足せず、更に我が国の窮乏、衰微を策して、我が国に対する卑劣な経済圧迫をつづけ、我が国をして経済的孤立に導かんとしたことは、前に記した通りである。彼等は日本民族の移民を完全に排斥し、我が国製品の輸入や、彼等の日本への輸出品をば、彼等の本国と属領とから、意の如く制限したのみならず、他民族の国からまでも日本排斥を策し、謀略を以てこれを実行せしめた。即ち我が国を完全に“はねのけもの”にして貧乏人にしてしまおうという策で、この排日、侮日は、ついに悪辣なる経済包囲、経済封鎖という目的のために手段を選ばざる結果を招来した。

彼等の企図したところは、

我が国を丸裸にし、丸腰にした上で軍事包囲をして我が国を袋叩きにしようとしたのである。

就中(なかんづく)我が国への油道の切断こそ、その悪辣性の最なるものであった。油道を切断して我が国の艦船、飛行機、機械化部隊が動かなくなれば、我が国を刃に血ぬらずして武装解除し、少なくとも我が国の軍備をして、日本国産の油で維持し得る程度にまで制限したのと同様である。こうしておいて、我が国を袋叩きにして打ちのめそうとしたのである。譬えを以ていうならば、ギャングの親玉がその配下を語らって、善良なる一人の少年を取り巻いて袋叩きの気勢を示しつつ、侮辱、罵言し、難題を吹きかけ、聴かねば打ちのめすぞという構えの姿勢、それがこの対日包囲陣であったのだ。

 

開戦前の包囲陣は包囲陣に非ずして攻囲陣であったことは前述の通りである。凡そ何れの国に於いても、自国防衛のため必要なる防備をなすのは当然のことであり、勿論仮想敵国との交戦の場合を十分に考慮のうちに入れるのも当然のことであるが、それは内容に於いても、外観的にも、守勢的であるべき筈である。袋叩き的構えたる攻勢包囲陣を作って挑戦し、相手をして起たざるを得ざらしめ、起てばこれを袋叩きにして打ちのめそうというような戦略は、世界史上未だ見ざる悪辣なる戦略だと断言することができる。

 

我が国史を見ても、世界史を見ても、戦端を開いた後、敵の城塞を攻囲し、糧道、水道を絶ち切って攻め立てることは、戦闘の常則であり、別に不思議はないが、開戦前から、敵を包囲し、その糧道及び水道と同様である油道その他軍需資源の道を絶ち切り、袋叩きの攻勢的構えをなし、これを以て傲慢無礼極まりなき外交折衝の後拠とした例は、古来ただ大東亜戦争開戦前の米英中心の対日軍事包囲陣あるのみである。

 

かかる悪辣性の包囲陣である。いわば挑戦そのものであったのだ。起たざれば我が国は自滅するか、袋叩きにされて落命するか、であったのだ。俄然、我が国がその自立自衛のために立ったのは、いわば当然の帰結であったのだ。 
----- ----- (文字おこし、ココ迄) ----- ----- 



今の世界は、大東亜戦争の時以上に深刻な状況にあるとも言えます。
体に危険なワクチンや食品添加物、戦争、飢饉、情報戦、貧困化…
そして、日本というアメリカの隠れ植民地の実態。。。
どうすればこの危機的状態から脱することが出来るでしょうか。
歴史の中に教訓があるかも知れません。
大東亜戦争の戦果 鳥居

我が国は大東亜戦争で、いったい何と闘って、何を転覆させたのでしょう?
↓こちらで武田邦彦先生が語られている、当時のイギリスを中心とした勢力
による植民地主義です。

日本の戦争こそ≪聖なる戦争≫

今同じ我欲勢力により、世界は現代版植民地支配構造が造られようとしています。
且つて我が国の特攻精神は、この勢力に対し、どのようにして打ち砕いたのでしょうか。
以前その日本について、韓国の朴鉄柱氏(韓日文化研究所)はこう語られました。

「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因している。大東亜戦争は平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。

それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。

日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。(略)

この捨て身の戦争が歴史を転換し、
アジア諸国民の独立をもたらした。

この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。

大東亜戦争で日本は敗れたというが、
負けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。

彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。

日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。

日本こそ勝ったのであり、 日本の戦争こそ ≪聖なる戦争≫ であった。
この輝かしい戦いをした先人の特攻精神を振り返ってみたいと思います。

(以下、4年前アメーバブログでBANされた投稿です)
アンドレ・マルロー特攻隊

当時、日本の特攻精神は、白人の魂をも揺れ動かしました

●空母「サンガモン」のパイロット、マックガン大尉
「わが艦の飛行甲板を突き抜けたあの男は、私より立派だ。
私には、あんなことはやれなかっただろう」
(デニスウォーナー著「ドキュメント神風」)
----- ----- ----- ----- 
永峰肇((1944年10月25日 」

●横須賀基地に所属する米軍の若いパイロットと元日本海軍大佐の会話(昭和26年)
日「君らは神風特別攻撃隊をどう思うか?」
米「10人の内7人は感激の涙をもって見、3人は憎しみをもって見ている」
日「君はどちらの方か?」
米「僕は7人のうちの1人です」
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●アメリカ将兵のなかで、特攻隊の攻撃を身をもって体験したり見たことのある者は異口同音に、
「真一文字に突っ込んでくる日本の特攻機を目のあたりに見ると、その意気に呑まれて、身の毛がよだった…」
(河出書房 猪口力平/中島正著「神風特別攻撃隊」)
エセックス空母

日本は建国以来一貫して愛情主義の歴史を織りなしてきました。
日本の大義ある戦いの真の強さの根底には愛情主義精神がありました。
それもあって戦後『有条件』降伏にもちこめたのだと思います。

05 八紘一宇

戦前迄、数百年続いた白人の我欲主義勢力を打ち砕いた戦いに、
日本の多くの若者達が、尊い命を捧げました。
命は、愛を完成させるために活用されてのみ、積極的な意味を持ちます。
愛の完成と直結しない死は意味がありません。

現代を見た時に人類はある意味、大東亜戦争の時以上に深刻な状況に立たされています。
この世界を救えるのは、やはり日本しかないと確信します。
当時の若者達が立ち上がったように、
もう一度、日本の若者達が立ち上がる時ではないでしょうか。

勝利の秘訣は
真実一路、誠心誠意、特攻精神です。
当時の若者達の戦いぶりを振り返ります。

━―━―━特攻隊 遺書━―━―━

黒瀬順斎 遺書

私がやらなければ日本国が大変なことになるs
冨澤幸光さん、出撃前の笑顔(23歳)
富澤幸光(ゆきみつ)海軍中尉(23歳)
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国家の為に散って行く事を最大の孝行としてお受け下さい。
私が戦死したと聞きましたら赤飯をたき、黒い着物など着ず、万歳をさけんで喜んで遺骨を迎へて下さい。
小松武(S20.2.21)
----- ----- ----- ----- 
戦死通知
戦死通知
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私は今より爆弾を抱いて、硫黄島に来襲せる敵艦に対して体当りを敢行致します。
私には、何の未練もありません。ただ国家あるのみです。
清水邦夫(S20.2.21)
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空母ランドルフに突入、左から(偵察)井貝武志上飛曹
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決戦に 征くる心や 秋の空
勝俣静逸(S19.11.23)
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バンカーヒルに突入した小川清機
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祖国よ永久に栄あれ
若桜 南の空の 雲染めて 国の嵐に 玉と砕けん
桜井幹男(S20.1.5)
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02
特攻隊と小鳥
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皇土に生れ皇土を護るはこれ大和民族の常である。
今茲に小生、特攻隊の一員として戦ふは、大和男子の当然のことである。
男と生れこれ程の本懐はむしろ常である。
廿年の修養は今日あるを以て、吾々は育てられて来たのである!
山本平造(S19.12.14)
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特攻隊員の宮川三郎「俺ホタルになって帰ってくるよ2」
特攻隊員の宮川三郎「俺ホタルになって帰ってくるよ」
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皇國一大難局に直面し、特別攻撃隊に選ばれ、栄誉此上なし。
生前の御恩に幾分なりとも報ゆるを得ば私の幸とするところなり。
身は敵艦を砕くとも魂は永久に皇國の隆昌を念じ、皆様の御多幸を祈るのみなり。
鈴木欣司(S20.5.4)
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産み育てられし祖国を護る栄ある子となれり
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春が参りました。首に巻いた純白の絹のマフラーも汗ばむ様になりました。
春だと云ひますのに、今、日本はそれどころではありません。戦ひは苛烈になるばかりです。
もう生きてお目にかかれる日はありません。
田熊克省(S20.4.16)
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石村正敏 陸軍少将

死ぬ前に笑える民族
出撃前、快心の笑みで写真におさまる第53振武隊員達。
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浜松第七航空教育隊・飛行第六二戦隊  前村 弘
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大命降下勇躍征途に就きます。
いさぎよく散る覚悟です。
何も思い残すことはありません。

よしや身は 千々に散るとも 来る春に また咲き出でん 靖国の宮
関三郎(S20.6.15)
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中根久喜中尉享年23歳
中根久喜中尉 昭和20年4月14日第六建武隊指揮官として零戦で特攻出撃戦死、享年23歳
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只今より出撃致します。実に喜び勇んで居ります。
小学校時代の遠足を思い出します。胸をわくわくさせて待って居ります。
決意とか覚悟とか云う様な、こだわりは少しもなく、本当に全員、純真無邪気です。
四宮徹(S20.4.29)
千尋の海に散るぞたのしき
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知覧は桜花満開、春の七草咲きほこり、蝶や小鳥の楽しげなるつどひ、初夏を呈してる南国の風景。
基地よ、征くものも送るものも皆命がけで活気を呈し、実に意気壮なるものがあります。
蓑島武一(S20.4.6)
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学半ばにして、学窓を去るの已むなきに至る。
我等は国家のため喜んで戦地に向かう。
我々の犠牲が何等かの意義を持つことを信じて。
上原良司(S20.5.11)
上原良司 03
上原良司
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松土茂伍長4月13日出撃、突入戦死。享年20歳
松土茂伍長4月13日出撃、突入戦死。享年20歳
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…然し地味に東亜の捨石となる覚悟なくして誰が縁の下の力持にならうか。
冷静に考へて自己の最善を地味に尽すことが最も大切なのではあるまいかと信ずる。
片山秀男(S20.4.29)
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緒方襄02 緒方襄緒方襄03
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高橋安吉  二十二歳  大空に国の鎮めと散り行かん
高橋安吉  二十二歳 
大空に国の鎮めと散り行かん大和男の八重の桜と
神風特別攻撃隊 月光隊
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歴史の蹉跌は民族の滅亡ではありません。
かならず新しい日本が訪れるはずです。
では御機嫌よう。
山口輝夫(S20.6.21)
宮内栄海軍少尉
撃墜王 西沢広義 01
永峰肇((1944年10月25日
井花敏男 沖縄戦特攻隊戦没者で最年少17歳
英霊来世-九段 唯今より出発します心爽やか大空のようです
穴澤利夫少尉(23歳)昭和20年4月12日出撃、沖縄方面洋上にて散華a
出撃直前沖縄周辺の敵艦船に突入戦死
出撃直前の[操縦]橋本清水少尉と [偵察]斉藤友治少尉。
沖縄周辺の敵艦船に突入戦死
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鳥浜トメさんと石原慎太郎氏
知覧特攻の母 鳥濱トメさんと石原慎太郎

┃日本の若者よ、日本精神を蘇らせよう!
しきしまの 大和心の をゝしさは ことある時ぞ あらはれにける
カバー画像用 特攻隊突撃の瞬間

┃歴史を指導する生き方が、未来を拓く
特攻隊に、死なないと思って志願した人は、一人もいません。
世界を我がモノにしようとする悪の勢力を挫く為に
一粒の麦となって散華されました。完全祭物です。
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一粒の麦もし地に落ちて死なずばただ一つにてあらん。
死なば多くの実を結ぶべし。」
(ヨハネによる福音書 第12章24節)
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後の日本がどの様な国難に遭遇したとしても
「俺達を思い起こして、越えて行って欲しい
だから今、歴史を貫く伝統を遺す!」

特攻隊の方達は、それを『狙って』逝かれました。

死んだのは、誤算ではありません。
“ 解った上で”  命を捧げ、未来を拓かれました。

今私達は、当時と同じ勢力と闘っています。
私達は、次の世代に責任があります。
英霊たちの死に報いる結果を遺す事が、未来への責任に繋がります。
 
後世の人達を勇気づける姿…
助け合い主義を学び、答えを見つけませんか?














(西村眞悟氏の時事通信より)
【重光葵】
アメリカ戦艦ミズーリ号上の降伏文書調印の全権。
彼は降伏文書に次のとおり、署名している。
「大日本帝国天皇陛下及日本国政府の命に依り且其の名に於いて 重光葵」
 鈴木内閣のあとを受けて、昭和20年8月17日に発足した東久邇宮内閣の外務大臣に就任したのが、重光葵である。彼には降伏文書調印の全権としての任務が与えられていた。彼は、明治20年に大分県に生まれた。片足を付け根から失った外交官であった。
 昭和7年4月29日、重光は上海において、駐中華民国公使として天長節を祝う式典に参列し、国家を斉唱していた。そこに爆弾が投げられた。重光はそのまま歌い続け爆弾の爆発により片足を失った。重光は言う。
「爆弾が投げられたのは分かっていたけれど、国歌斉唱中なので動かなかった。動くのは不敬であると考えた」
今の者なら全員、爆弾から逃げる。逃げなかった重光は、とてつもない男ではないか。重光はその後、負傷を負う身で上海事変の停戦協定にサインするが、この行為をイギリスのランプソン公使は、「にくいほど勇敢な我々の友」と絶賛している。
 その後、重光は東條英機内閣の外務大臣となり、大東亜会議を開催して大東亜共同宣言を発し、 大東亜戦争の目的を
「アジア解放」
と位置づけた。
そして、自ら「アジア解放」と位置付けた戦争の降伏文書調印の全権となるのである。
 全権に就任した重光は、まず天皇に内奏する。 そして8月28日、伊勢神宮に向かう。 重光は神宮で全霊を込めて祈り、「渾身の意気と忠誠をもって降伏文書調印の大任に当たらんと誓った」。 そして、9月2日午前9時、重光はモーニングにシルクハットの姿で、戦艦ミズーリ号のタラップを陛下から下賜された義足を引きづり、登った。 戦艦ミズーリ号
 このようにして重光は降伏文書の調印を終えるが重光のマッカーサーとの本当の戦いは、降伏により陸軍が武装解除されてから始まった。
重光は、連合国最高司令官司令部が占領下に入った日本で「軍政」を敷こうとするや、その司令部に乗り込み、マッカーサーに一歩も退かずに直談判して、遂に軍政をやめさせている。
戦時中の徹底抗戦派ほどマッカーサーを恐れ、従順なイエスマンになっていたこの時期、マッカーサーに噛みつきに行くなど、重光でなければできないことだった。
 重光には、
『大東亜共同宣言で示した日本の
<諸民族の共存共栄と、人種差別撤廃を掲げた戦争目的>が、
ルーズベルトやチャーチルが太平洋憲章で示した
<白人の為だけの戦争目的>
よりも遥かに普遍的な価値を持つ』
との強い自負があり、
同時に外交官として、日本は戦争に負けはしたがポツダム宣言の範囲で
条件降伏>したのであるから
ポツダム宣言を超える命令は断じて許してはならない
との信念があった
(西村眞悟氏)

先回↓に続き、歴史認識についてです。
   
こちらの方々はアメリカ国内で、『従軍慰安婦利権』にまみれながら
日本のいわゆる従軍慰安婦問題を捏造し、宣伝戦を精力的に繰り広げてきた方達です。
反日繋がりマイクホンダと統一教会1

そもそも『日本の従軍慰安婦問題』は、朝鮮戦争時の米軍(国連軍)による犯罪のすり替えの可能性が高いと思われます。
アメリカが従軍慰安婦問題を国会決議 日本軍に擦り付けた
00 慰安婦問題(性奴隷)はアメリカ政府と韓国政府との策略s

当時の生き証人であられる方の貴重なお言葉を引用させて頂きます。
「日本の従軍慰安婦ものがたり」を拡散している統一教会の皆さんが
心から尊敬しておられるお方の言葉です。
文鮮明教祖のご発言(元統一教会信者のブログより)

下記は、韓国の米軍慰安婦「洋公主」「洋ガルボ」の文教祖のみ言葉です。

もちろんこれも日本語には翻訳されておらず、日本人信者は知りません。文教祖は朝鮮戦争以降の公娼(洋公主)の存在を実際に見てきたのです。

 

『ですからソウルで・・・暮らしていたおばさんたちの中で30パーセントが洋ガルボ(米軍慰安婦)だったということを知っていますか? それ知ってますか? 世の中を知らないといけません。娘や嫁がその仕事(売春)をして...。裕福に暮らしていたのに御飯をどうやって確保しますか? 娘を(慰安所に)売り、嫁を売って、ありとあらゆることをして生き残ったのです。それを知っている先生は勝手に生活することはできません。』

(「文鮮明先生み言葉選集」458巻より)

↓こちら、韓国人の教師による研究報告です。
「日本軍慰安婦問題はなかった」
慰安婦01

朴大統領サイン入り書類

安倍政権の時に「河野談話検証」をしました。その検証結果は
『河野談話に書かれているような事実は無かった』と結論づけられました。
河野談話は国民向けに悲惨さを捏造した_秦邦彦

実際、一次史料をいくら探しても、当時米軍による、この種の犯罪は山ほど存在しますが
日本軍によるものは殆ど存在しないのです。
★韓国主要紙 東亜日報記事データベース 「慰安婦」検索結果資料
記事をご紹介します。
UN軍慰安婦 生活苦が動機
NYタイムス 米軍と韓国軍が許可
ニューヨークタイムズ20090107
慰安婦誘拐事件 東亜日報
米韓警察が誓約 女性の名誉を守る 19620823 - コピー
米軍が暴力 賠償金2ドル
米軍による暴力10
米軍による暴力11
米軍による暴力12
米軍による暴力13
米軍による暴力3
米軍による暴力4
米軍による暴力5
米軍による暴力6
米軍による暴力7
米軍による暴力8
米軍による暴力9
米軍基地で性病多発の為講習会
米軍基地の売春婦総数
米国の教科書中韓より酷い嘘を記述

韓国の元売春婦(いわゆる従軍慰安婦)さんへ
嘘をつくなら、先ずは歴史のお勉強をしましょうね(*^^*)b
朝鮮戦争時に日本軍に従軍慰安婦にされたニダs

国会資料 日本に対して抗議される韓国人のお婆さんたちに対する
加害者は、全て朝鮮人
でした。
それを日本は、取り締まっていたのですよ。
売り飛ばしていたのは全て朝鮮人の犯行

アメリカの大統領達へ
あのぉ… 自国の罪を日本に擦り付ける卑劣なパフォーマンスは止めましょうね(^_-)b みっともないデス。
 ↓日本の「いわゆる従軍慰安婦問題」について語る。
オバマ 従軍慰安婦問題

朝鮮戦争時の米軍の犯罪を日本にすり替えた従軍慰安婦問題

----- ----- ----- ご参考 ----- ----- -----
【西尾幹二】日本に於ける在日米軍の犯罪(強姦) 河野談話見直し会見
(一部文字おこし)
そもそもアメリカに、あるいは世界各国に、戦争と性の問題で日本を非難する資格はありません。
元都立大教授で東洋大学長の磯村英一さんは、敗戦の年、渋谷区長をしていました。
アメリカ軍司令部(GHQ)の将校から呼ばれて
「占領軍の兵士のために女性を集めろ」と命令され、
レクリエーション・センターと名付けられた施設を造らされました。

当時市民の中には食べ物も無く、
チョコレート一枚で身体を売るような女性の話も広がっていました。
磯村さんは慰安婦問題が当時国際的に話題になるにつれ、辛くて
自分が日本人の女性を米軍兵士の自由にされる境地に追いやった恥を
告白せずにはいられない、と懺悔しております。
(「産経新聞」平成6年9月17日)

穏健な良識派で知られる日本芸術院長の三浦朱門先生は
「軍隊と性という問題と取り上げるなら、
戦後の米軍が憲兵と日本の警察を動員して
一定街路を封鎖して、全ての女性の性病検閲を行ったこと、
その際、娼婦でない女性が巻き込まれたこと、
レイプもあったことを是非書いて欲しい。
事件の殆どは闇から闇に葬られた……。」
(「産経新聞」平成8年8月2日)
→GHQは言論統制をしき、被害者の乙女たちの口を封じた)

パンパンとかオンリーという名で呼ばれた日本人慰安婦が派手な衣装と化粧で
アメリカ兵にぶら下がって歩いていた風俗は、つい昨日の風景であります。
私はいかに少年時代にそれを目に焼き付いて覚えているか、
その日本人女性の数は20万人であります。

これは米軍による「日本人慰安婦(性奴隷)」です。

『りべらる』という雑誌があり、
若い女性が特殊慰安施設に連れて行かれて、初めての日に処女を破られ、
一日最低15人からの戦場から来たアメリカ兵の相手をさせられ、
腰を抜かし、
別人のようになったさまが手記として残っています。

どこの部屋からも、叫び声と笑い声と、
女たちの嗚咽が聞こえてきました。
二、三か月の間に病気になったり
気が違ったりしました。

これは何年にもわたって、日本の全土にわたって行われたことの
縮図だったのです。
(昭和29年11月号)

日本を今告発するアメリカ議会、キリスト教諸団体等は
あなたの父や兄が何をしていたかを知り、
「恥を知れ!」と申し上げたい!
日本政府はアメリカに謝罪と賠償を要求するべきです。

もしそれができない、そのつもりがないと言うのであれば、
日本政府は慰安婦問題についていかなる謝罪も賠償もすべきではありません。

国際関係はなによりも“相互性”と“公平性”を必要とします。
アメリカは日米戦争に於いて自国の正義を守るために、
日本を残虐非道の国であったとしておきたいのです。
さもないと原爆や東京大空襲をした歴史上の犯罪を
正当化することができないからです。

2007年以降のいくつものアメリカ議会の慰安婦決議は、
今迄親米的であった日本人、
戦後アメリカの反共政策に協力してきた日本の保守階層、例えば私もその一人ですが、その人達を苦しめ、苛立たせています。

このままアメリカが事態を解消しなければ
無実の罪を負わされ傷つけられた日本人の感情は
内攻化し、鬱屈し、反米的方向へ走り出す可能性があります。

一番いけないのは、
日本をホロコーストを犯したナチスの国ドイツと同列に並べて
裁こうとするために慰安婦問題を大きく誇大に描き出すことです。
(略)
韓国はベトナムに参戦し、
7000人~2万人の私生児を残しています。

最後の一つのエピソードを申し上げて終わりにします。
戦争中、中国の雲南省の最前線でアメリカ軍に追い詰められた日本の部隊は
隊内にいた朝鮮人慰安婦を
「お前たちは生きて帰れ」とアメリカ軍側に引き渡し、
残っていた日本人慰安婦は兵隊さんと共に自決して玉砕しました。

日本の兵士たちは武士道で戦っていたんです。
日本人婦女子凌辱事件ファイル
----- ----- ----- ----- ----- ----- ----- ----- -----
(文字おこし、ココ迄)

日本がやったとする一次史料が無い中、日本政府は
やってもいない 米軍による犯罪の代価を払い、謝罪を繰り返しています。
アメポチ 日韓合意
そもそも日韓合意は「やれ」と圧力をかけたアメリカに屈した形で為されました。
   ↑これを日本に強要したのは、アーミテージです。
アーミテージ氏は第3次レポートを含めてこう言っています。
■アーミテージ・レポート
「安倍総理の靖国参拝は、これまで積み上げてきたものすべてを破壊するインパクトがある」
「慰安婦論争において日本は絶対に韓国に勝てない」
「日本には勝てない論争である、日本は歴史問題を直視すべきだ」
どこまでも、米国の犯罪を日本に擦り付け、押し通そうとする姿勢に見えます。
20151228 ニューヨークタイムズ 

慰安婦一人5百万







「天地も人も怨みずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く」
「いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば」
「世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等誠の心」
これは
南京大虐殺という捏造話の責任を問われ
巣鴨プリズン内で1948年12月23日公務死された
松井石根 大将の辞世の句です。
立派な公務死を遂げられた、我が国の誇らしい先人に負わされた
冤罪の背景について書きます。(アメーバブログでBANされた記事の再掲)
----- ----- ----- ----- 
下の地図はNHKのスペシャル番組から頂きました。
原爆投下責任者・グローブス保管の、京都(原爆投下第一候補)の地図
一般市民(非戦闘員)の住居密集地域に投下する予定でした。
グローブス 原爆投下第一目標京都19発 予定
また「皇居」も原爆投下の候補地として議論されていたそうです。
皇居も議論されていた 原爆投下候補地 1
投下予定地は、以下の17カ所でした。
1945年4月28日付け文書。。

アメリカ人は、日本への原爆投下について良心の呵責を感じないどころか、
寧ろ誇りにしているように見えます。
トランプさん「(原爆の開発は)貢献した」
トランプ大統領の歴史認識 原爆開発を正当化  大戦終結に寄与

このアメリカ人の『誇り』は、アメリカ全体にあるように見えます。
エノラ・ゲイは大事に保管された後、
人類に貢献した誇りを展示する』スミソニアン博物館に陳列しています。
スミソニアン博物館『人類に貢献した』…米国の認識
『名誉ある技術成果を誇る』意思表示、これがアメリカの認識です。
8分以降~原爆投下について


日本への原爆投下は遅くとも1944年には英米で決定していました。
原爆実験は事前に予定されていた
これには「お金儲け」もあった為、止めるワケにはいきませんでした。
原爆利権

原爆ができる迄戦争状態にしておけ 1
原爆を投下するまで日本を降伏させるなs
原爆を投下するまで日本を降伏させるな ユースタス・マリンズ
アメリカは、この『非戦闘員を狙った』原爆を正当化させる為
には、どうしても世界をす為の情報工作をする必要がありました。
その為に制作したのが「南京大虐殺ものがたり」の捏造映画「THE BATTLE OF CHINA」です。
アメリカは自国民を騙し、日本への強い憎悪を掻き立てることに成功しました。
スタンフォード大学歴史学部長のデビッド・ケネディ 『南京大虐殺』は反日プロパガンダの中核となった。 この映画はその顕著な一例である
 その映画について解説しているのが、↓こちらの動画です。  
この動画の「5分35秒~」からご覧ください。 「日本軍が南京大虐殺をした」と捏造したのはアメリカです。 (中国はアメリカに倣い、少し遅れて宣伝戦を始めています。)
アメリカは自国民を洗脳する為に、この映画を1944年に
全米で繰り返し上映し、戦争終結までに約400万人が観ました。 その
目的は後に行う原爆投下を相殺できるほど日本は悪かったと吹き込む。 “日本の残虐性を擦り込み、米国民に強い反日感情を植え付けること” にありました。 映画監督フランク・キャプラ(1897-1991)は、 この映像の「5分35秒」のオリジナル映像が 中国兵が同じ中国人を処刑している場面であった事を知っていました。 当然ですが、日本兵の行為ではないと明確に認識していました。 ですから、彼はこのカットの右側を切り取り、合成し 日本兵が行った事にする為の工作をしました。 このアメリカ産「日本軍による南京大虐殺ものがたり」の為に、 空襲、原爆など日本の41万人以上の非戦闘員が米軍に惨殺されるという 国際法に抵触した大罪が、正当化されました。
----- ----- ----- 日本への原爆投下は
『人体実験』↓ ----- ----- -----
原爆投下が人体実験である根拠s

今でもそれを正当化しています

以上が冒頭ご紹介した
辞世の句を認めるに至った背景です。
この南京大虐殺という責任を背負わされ死刑となった松井石根 大将のご心境です。
もう一度ご紹介します。
松井石根大将 辞世の句
「天地も人も怨みずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く」
「いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば」
「世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等誠の心」
南京に入城する松井石根大将
軍紀 日本軍は慈愛に満ちていた松井石根大将

---------『「南京事件の総括」虐殺否定の十五の論拠』田中正明 著 より抜粋-----
「松井大将の中国観」から抜粋
松井大将は南京攻略にあたって《南京城攻略要領》を下命し、
南京入城の兵は各師団とも選抜せる歩兵1大隊のみと限定し、次のような細心の注意を与えている。抄出すると、
(1)部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし支那軍民をして皇軍の威武に敬仰帰服せしめ
 苟も名誉を毀損するが如き行為の絶無を期するを要す。
(2)別に示す要図に基き外国権益特に外交機関には絶対に接近せざること、
  外交団が設定を提議し我軍に拒否せられたる中立地帯(難民区のこと)には
  必要の立入を禁し所要の地点に歩哨を配置す、
  又城外に於ける中山陵其他革命志士の墓及明孝陵には立入ることを禁ず
(3)掠奪行為をなし又不注意と雖も火を失するものは厳罰に処す、
  軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ不法行為を摘発せしむ

 松井大将はこれでもなお安心できず、さらに自ら筆をとって次のような末端将兵に対する訓戒を重ねて示達した。
「南京は中国の首都である。
之か攻略は世界的事件である故に 真に研究して 日本の名誉を一層発揮し
  中国民衆の信頼を増す様にせよ、
特に敵軍と雖も抗戦意志を失いたる者 及一般官民に対しては
  寛容慈悲の態度を取り  之を宣撫愛護せよ。」
 この一文は、下士官兵にいたるまで徹底せよと命じた。

------ ココまで 『「南京事件の総括」虐殺否定の十五の論拠』より --------
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(ご参考)共に死刑となった野田少尉の遺書
「俘虜、非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は
絶対にお受けできません。お断りいたします。
死を賜りましたことについては
天なりと観じ命なりと諦め、
日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
今後は我々を最後として我々の生命を以て、
残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願いいたします。

宣伝や政策的意味を以て死刑を判決したり、
面目を以て感情的に判決したり、
或は抗戦八年の恨み晴らさんが為、
一方的裁判をしたりなされない様祈願いたします。
我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても
貴国を怨むものではありません。
我々の死が中国と日本の楔となり、
両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、
ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。
何卒、我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願いたします。
中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳」
   ↓南京虐殺の冤罪で死刑にされた向井敏明と野田少尉
南京 向井、野田、

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このアメリカがその戦略下で中国国民党政府を動かし
中国は1945年、アメリカの「バトル・オブ・チャイナ」の中国版に編集した「中国之怒吼(どこう)」を制作しました。
あくまでも「南京大虐殺ものがたり」は、アメリカ産であって
中国はそれを中国版に編集して広げたに過ぎないのです。

アイリス・チャン レイプオブ南京は嘘




大義と信義と恩義…日本人はこの三つの道義を重んじてきた民族です。

日本の武士道は大義を優先しました。
あらゆる義の中でも最大の義が大義です。
自分のための義ではなく、
家庭の義を優先し、
国家の義を最優先しました。
宇宙を貫く義を日本人は
「おてんとうさまが見ている。」
と表現しました。
そのような義を常に重んじてきました。
我が国は大義を掲げ、戦争目的を見事に果たしたのです。
アムステルダムの光芒

この日本に対し、アメリカは原爆を投下しました。
プーチン大統領は昨年2021年3月19日、原爆投下についてこう述べました。
「米国が使った広島と長崎への核兵器は軍事的には全く無意味で民間人の虐殺だった」
https://www.youtube.com/watch?v=8d7LN4RJU04
その通りですね。ところがアメリカ国民の大半は原爆投下を正当化した教育をされています。(少し古いデータで恐縮です;)
01 米世論は6割が原爆は正義だs
彼らが原爆は正しかったとする理由はこうです。
「日本は真珠湾を卑劣な奇襲をしたから、原爆は正当な報復だ」
以前書きましたが、善悪判断や価値を論ずるには、「動機・目的」に照らし合わせて判断すべきです。しかし本質的な話が通じない相手には、相手の視点から説明する必要があります。
「動機・目的」に照らし合わせ、先の大戦について検証するのは次回に譲ることにして、今回は
↓こちらの元大統領の視点(写真下方)に合わせて説明したいと思います。
トランプ大統領 原爆は正義

これは歴史の経緯を見れば満州事変前からずっとアメリカこそが宣戦布告無しに中国の背後で対日戦争を仕掛け続けていた事実が見えてきます。
米が宣戦布告なしに日本攻撃
アメリカは支那に戦費や武器、現役兵士を送り、
満州事変の前から日本に対し、支那兵の軍服をまとって
宣戦布告無しに攻撃し続けていました。
アメリカがこうした悪逆非道な行為を正当化するには、「日本こそが悪玉だ」となるようなブラックプロパガンダ(偽情報で正しい相手を貶める宣伝工作)が必要でした。
それが、真珠湾『奇襲』という宣伝工作であった様です。
ところが、当時の日本はなかなか 挑発にのりません。
↓日本の対日戦略はずっと『思想戦』(黒地)だったのです。信義を以てアメリカ国民に訴える挑戦でした。
対するアメリカは早くから、日本の卑怯な真珠湾『奇襲』というシナリオ(水色地)↓がありました。
日本は対米思想戦 米が真珠湾を策謀
アメリカの『宣伝戦』のキーワードは『奇襲』

この戦略は日本ではなく、アメリカ側にありました。
日本は、真珠湾など頭になかったのです。距離が遠すぎたのです。
日本の対米戦略は武器ではなく、思想で世論を変えようと戦略を練っていました。
しかしその遥か前から、アメリカ上層部では「日本による真珠湾奇襲」構想があったのです。日本人の中にはなかった構想が…不思議ですねぇ~
1941年1月24日、即ち真珠湾から一年ほど前

西尾幹二先生の講義です 48:10~ 

真珠湾の約一年前の1941年1月24日

フランク・ノックス海軍大臣がヘンリー・スチムソン陸軍大臣に認めた手紙(海軍が陸軍に命じた内容。)

「日米戦は必至だ。

その時、日本は必ず真珠湾を攻撃する。(させるよう、日本を追い込む!)

そしてそれは、奇襲となる。(となるよう、仕組む)

西尾幹二先生(焚書図書開封)

アメリカは『奇襲』という言葉を頻りに使っています。

これは事実を表現したのではなく、政治的表現です。

アメリカの宣伝戦『ブラックプロパガンダ』としての【奇襲】

日本を貶める偽情報を発信拡散し、世論を惑わす宣伝工作)

 

この頃からアメリカは意図的に
また戦後ずっと奇襲という言葉を執拗に言い続けている。つまり、工作用語です。

アメリカ国民の怒りを日本に向け、爆発させ、参戦の世論を沸き立たせる為

そしてアメリカが仕掛けた戦争を、日本に責任転嫁する為の印象操作です。

「奇襲だ!日本は悪辣だ!だから、アメリカ国民は参戦に賛成せよ」

と。

しかし軍事的には、戦争は既に始まっていました。

フランク・ノックス氏はまるで占い師のように、

当時の日本の実際の状況(武器を使わない対米戦略『思想戦』)とは真逆の計略(真珠湾奇襲)を練っていました。

以前の繰り返しになりますが、この十カ月後、ロバーツ委員会報告書に残された記録を確認します。

『ロバーツ委員会報告書』

●1941年11月26日(日本時間11月27日)、戦争をおこしたいアメリカ側から、戦争を回避したい日本側にハルノートを突き付けた。

●1941年11月27日、(下記、ドール大佐「運命的な会議(ハルノート)」の二日後)

陸軍諜報部長はハワイ陸軍司令指揮下の諜報官に宛て同じくメッセージを送る。

「日米交渉は事実上決裂した。(実際は、米国が決裂するように仕向けた

続いて日米は戦争行為に入るかも知れない。

何等かの破壊的行為が予想される故

この旨陸軍司令官及び参謀長に上申警告すべきことを通知す。

同日、海軍作戦部長は太平洋艦隊司令長官に宛てメッセージを送り

このメッセージは戦争の警告と考えられる事。

太平洋の安定を得んとする日米交渉は終わりを告げた事。

数日中に日本は戦争行動に入るだろう事。

日本陸軍の臨戦態勢と、日本海軍部隊の(…)等により

日本軍のフィリピン、マレー半島、ボルネオ等に対する水陸両面の侵攻作戦を

(…略)かくして両司令長官はこの訓令に基づき、右メッセージの要旨を

ハワイ軍司令官に通達した。

本委員会(ロバーツ委員会)に於ける査問会の席上、

ハワイ陸軍司令官ショート中将は上記メッセージについて

「見せられたような気もするが記憶はない」と陳述した。(←とぼけて逃げた)


一方ドール大佐(ルーズベルトの娘婿)はルーズベルトが酷く日本を追い詰める動きを近くで見ていました。

ドール大佐曰く

「ホワイトハウスで1941年11月25日に開かれた運命的な会議の記録を読み返して見て」(←日本に対して翌日26日ハル・ノートを突き付ける悪巧み

「私の以前の義父、ルーズベルト大統領および彼の側近たちの戦略は、(日本との間の)
平和を維持し、保障することではなく、

事件を組み立て、あるいは引き起こさせて、
アメリカを日本との戦争に巻き込む
という陰謀にもっぱら関わっていた
と、私は悟ったのです。
それを知って私の心は張り裂けんばかりでした。
これは『裏口』からヨーロッパの戦争に入ることを可能にする計略でした。」

「アメリカ国民は日本との戦争を欲していなかったことを彼(ルーズベルト大統領)は十分に知っていて、

それゆえにこそ、あらゆるコストを払っても戦争をアメリカ国民の頭上に押し付けなければならなかった。

かくて欺瞞に満ちた諸々のことが舞台に入り込み、アメリカ国民の激しい怒り、感情的爆発を起こす『事件(真珠湾攻撃)』を創作することが必要となったのです。

そこでこの怪しげなマントが、巧妙に日本人の肩に掛けられなければならなかった。 


アメリカは日本に対し、最初の一発をただ打たせるのでは物足りず

日本に『奇襲』攻撃をさせる事でより『悪玉』を演じさせたかった。
以前にも触れましたが、その為に利用されたのが、日本の優秀な商社マン新庄健吉氏(諜報員)です。

 新庄健吉陸軍主計大佐

国際金融資本の動向を調査していた新庄健吉は、44歳の若さで
『偶然』病気になり

『偶然』イエズス会のジョージタウン大学の医学部の病院に入院してくれた

『偶然』アメリカが策謀を巡らせていた真珠湾奇襲の数日前に死亡した。そして

『偶然』新庄の葬式の時の牧師の話が長々と異例の長さになった。

『偶然』その葬儀中に、開戦となった。

ハルへの宣戦布告文書提出する立場の野村、来栖の両大使がその葬儀に出席しており

『偶然』牧師の話が長々と異例の長さとなった為、中座することができなかった

焦った一等書記官が退席を促すが、野村はそれを制止し、そのまま葬儀に出続けた。

そうこうしているうちに、攻撃が始まり、ハルへの宣戦布告文書提出が遅れた。

見事にアメリカの願望『日本による先手攻撃』しかも『奇襲』が叶った
っということです。 

大本営政府連絡会議の12月6日の会議において、最後通牒の「手交の時間」がワシントン時間7日午後1時と決定され、伝えられていた。 

それにもかかわらず、なぜ野村大使の手渡しが大幅に遅れることとなったかは、

実は、この葬儀での牧師のメッセージの遅延にあったのです。

 

45歳で突然亡くなった新庄大佐の本当の死因は不明です。

そして、なぜ4日に死亡したのに、

葬式が開戦まで秒読み段階に入った非常時の7日に行われたのか、

また、なぜ野村・来栖両大使がその葬儀の日程を受け入れ、それに参加したのか。
すべてが謎です。
日本の天皇陛下や東條内閣の意向ではない真珠湾攻撃が何故起こされたか、
それはアメリカ国内の共産主義者(国際金融資本のコマ)の牙城としての太平洋問題調査会(IPR)が関係しています。これは林千勝氏によると「ロックフェラーの民間版国際連盟のような組織」だそうです。
彼ら国際金融資本家と繋がっていた日本人や左翼を傀儡として操っていました。
この両者(共産主義とグローバリズム)は同根です。
それらの人達が、アメリカの描いたシナリオ通りに演じたのです。
(下図は林千勝氏の講義より)
太平洋問題調査会

現在、いまだに日本はアメリカの策謀にハマり続けています。
安倍元首相、真珠湾での発言↓

20161227 安倍真珠湾で「犠牲者」という名の加害者を慰霊4

信義を失ってはならぬ 松岡洋右

ビルマ外相ウー・ヌー崇高な理想と高潔な目的
こうして恩義をもって称えて下さる同志に感謝です。
三大道義を重んじる精神を取り戻しましょう!








81年前の新聞記事から(引用 ・神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫)
報知新聞 1941.6.23-1941.6.29 (昭和16)の記事を7回にわたって転載します。
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地底政府 01

与論が白聖館を支配し、与論が政治的権機力に先駆するとまでいわれた与論の国アメリカ—その民主主義の牙城アメリカが今や一億三千万国民の与論を、"頬かぶり"して参戦の無限軌道を猪突驀進しようとしている、

国民がストップと手を挙げているのに運転手ルーズヴェルトは赤信号を無視して遮二無二参戦の交叉点を渡ろうとしているのだ、

冷静な与論を踏みにじってまでアメリカは何故"参戦"の危い橋を渡ろうとするのか、

アメリカの実思を歪め、アメリカの与論を去勢するものは誰か?

この疑問符をあぶり出しにかけると『参戦を煽るものユダヤ地底政府』という文字が大きく浮び上って来る、

ニューヨークがジューヨークと呼ばれ、

ニューディールがジューディールと皮肉られ、

ニュースペーパーがジュースペーパーといわれるくらい

ジュー即ちユダヤ勢力が浸潤し、
ユダヤの資金力によって金しばりにされているアメリカである、

米の参戦近しが喧伝される今、ここにアメリカの参戦をあおる"ユダヤ地底政府"を白日下に暴き、参戦の鐘は論がために鳴るかを解剖して見よう

 

(1) 黄金の力ぞ偉大 大統領選挙の裏を覗けばユダヤ財閥の大芝居

ナポレオン一世がかってユダヤの恐るべきについて述べた言葉のなかに

「ユダヤは地球上癩病よりも恐ろしく他民族の体に附着せる寄生虫である」
という警句があるが、現代のアメリカはさしづめ政界といわず、財界といわず、言論、文化機関とあらゆるものをユダヤの寄生虫によってむしばまれた異常体質、異常国家である、

下はギャングから上は大統領に至るまでユダヤの息のかからないものはないといわれる位ユダヤ黄金力によってあやつられ、踊らされるドンキホーテ・アメリカ、
その恐るべきユダヤ黄金王朝の威力を最も端的に示した卑近な例は昨秋の大統領選挙であった、

ウイルキーか、ルーズヴェルトの三選かと世紀の話題を賑わした大統領選挙も、種を明かせばユダヤ地底政府が書御しユダヤ財閥が演出した国際的"からくり芝居"であったのだ

世界の金の三分の二以上を自己の懐におさめ、左団扇で凉しい顔をきめこんでいたユダヤ国際金融資本にとって今次大戦—ヒトラーの金本位打倒戦は恐るべき現状打破の鉄槌だ、

ヒトラリズムを呪咀し、ナチスの覆滅を企図したユダヤは、アメリカの参戦によってドイツを叩き潰し世界に漲る反ユダヤ思想を撲滅して国際金融資本を死守せんとした

しかし一億三千万のアメリカ国民を馬車馬のように参戦街道へ駆りたてることは容易な業ではない
そこで書卸されたのが一九四〇年の大統領選挙戦の"カラクリ芝居"であった、

ユダヤ財閥の秘蔵っ子ウイルキーをさくらに、これも同じくユダヤ黄金力で金縛りにしたルーズヴェルトを花形役者に仕立てて演じられた世紀の"八百長芝居"ウイルキーが当選してもル大統領が三選してもアメリカを参戦へ引きずって行くようにとの手形で、ユダヤ財閥から巨額の選挙運動費が両派にバラまかれたこと勿論である、

しかしユダヤの支配力はあらかじめルーズヴェルトの確定票を握っていてル大統領の三選即参戦を目標に、ウイルキーは飽くまでさくら、道化役者として筋書を進行させていたのだ、
なぜならウイルキーよりもルーズヴェルトの方が参戦の与論を引ずって行くのにたくましい追力を持っているからである
ユダヤ財閥の脚色、演出に成る"大統領選参戦劇"はこうして国際舞台に上演されたのである、

しかしこれは楽屋裏のことであって、表面は巧妙にカムフラージュされ、ウイルキーとルーズヴェルトの鎬を削る舌戦、文書戦が展開されて行った
ルーズヴェルトが徹頭徹尾援英を強調したのに対しウイルキーは戦争の圏外に止まることが合衆国の義務であると高らかに呼号し米国民及び世界の眼を巧妙にまどわしつつさくらの役割を果した、

その間にユダヤの掌握する新聞、ラジオ、映画は盛んに参戦熱をあおりつつルーズヴェルトの三選即参戦へと与論をマス・プロダクションしていたのである、

当時の日本あたりでもウイルキーが当選すればアメリカの参戦を阻止することが出来るからとウイルキー優勢?ウイルキー危し!の外電に一喜一憂した人々も少くなかったようだが、これなど笑止の沙汰だ、

選挙の結果は筋書通りル大統領の三選となってユダヤ財閥の威力を遺憾なく誇示して終幕となった
それから僅か数箇月後の本年一月世界のジャーナリズムを驚倒させる選挙後日談が突発した
"ウイルキー仇敵ルーズヴェルトの親書を携えて英国に使す"というニュースである、
選挙の際ルーズヴェルトの反対候補として文字通りの鎬を削ったウイルキーが、打倒ルーズヴェルトの舌の根もかわき切らない中に豹変も豹変政敵ルーズヴェルトの軍門に降って対英援助の使者としてロンドンに渡るというのであるから世界中がアッと驚いたのも無理はない、
しかしこれもユダヤにとって見れば予定の筋書をプログラム通り取進めたのに過ぎないのであって、米国の識者は初めてウイルキーの正体を知り大統領選挙のからくりを看破したのであるが、時即に遅かったのである
ウイルキーの英国訪問の費用は全部ウォール街から支出されたというし、英国での談合もドイツが提唱する新しい経済理念に対する金本位ブロック死守の相談であると伝えられるのは、ユダヤに対する彼の忠実なご用振りを如実に物語っているではないか
(つづく)


昭和天皇が戦争中
国民に思いを馳せながら防空壕でお住まいになられた様子は
数年前多くの人に知られ、話題になり私も記事に書かせて頂きました。
そうして終戦を迎えました…
終戦の時の昭和天皇の御製

天皇陛下は戦後、ご自身の率直なお気持ちを国民に向けて残されました。
しかしその文書の存在が55年間も封印されていました。
当初この文書は封印される事はあり得ませんでした。
昭和天皇が公表することを強く希望されていたからです。
「真意をきちんと国民に伝えたい…」 昭和天皇はそうおっしゃって、
記念式典で文書の内容が公表される予定だったそうです。
ところが..直前になってGHQ占領下で公表は中止となったと言われています。
それ以来、半世紀以上にわたって文書が封印されてきました。
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詔書は、戦後新制度の下で初代宮内庁長官となった田島道治の遺品資料の中から発見されました。
「謝罪詔書草稿」の全文は五百十一字。
以下、原文ではなく大意。

謝罪詔書草稿 昭和天皇朕は即位以来二十余年、
始祖以来の代々の天皇と国民に背くことのないように日夜勉めてきたが、
時の流れを変えることができず、
善隣との友好を失い、列強と戦い、遂に悲痛なる敗戦に終わり今日の如き甚だしい惨禍を招くに至った。
屍を戦場に曝し、また職場で命を落とした人々は数えようもなく、
死者とその遺族に思いを致すとき、真に心痛の思いを禁じ得ない。
また戦傷を負い、戦災を被り、或いは異国の地に抑留された人達や
外地で財産を失った人々も数えきれない。
その上一般産業の不振、諸物価の高騰、衣食住の窮迫などによる数えきれないほど多くの人々との塗炭の苦しみは、まさに国家未曾有の災いである。

静かにこれらを考えるとき、心配の炎は身を灼(や)くようである。
朕の不徳を深く天下に愧(は)じる。
 
(原文:静ニ之ヲ念フ時憂心灼クガ如し朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ズ)

身は皇居内にあっても心は安からず、
国民のことを思うとき、その負荷の重さに途方にくれるばかりである。


しかしながら現今は稀有の激変期にあり、世情は騒然としている。
自分一人を正しく潔くすることを急ぐあまり国家百年の憂いを忘れ
目先の安らかさを求めることは、真に責任をとることにはならないと考える。
内外の情勢を鑑み、敢えて身を挺して艱難に立ち向かい、
徳行(とっこう)を修め善行を積み禍を払って、
国運の再建と国民の幸福に尽くすことにより、祖宗と国民に謝罪しようと思う。


全国民もまた、朕の意を諒(りょう)とし、内外の形成を察し、
心を合わせて協力し、それぞれの天職に尽くすことによってこの非常時を克服し国威をひろめることを心より願う。

(引用:加藤恭子「封印された詔書草稿を読み解く」『文藝春秋』2003年7月号)

昭和天皇がこのようなご決断をされた背後に以下の出来事があったと思われます。
以下、歩一〇四記念講演特集号より
●貞明皇太后の前で涙された昭和天皇
(略)…また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。
母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、
そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、
戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、
法華経をあげて生涯を送られたのです。
その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。
貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。
この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)
などとはご卑怯ではありませんか。
退位は絶対になりません!」
陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。
「陛下の万歳を叫んで死んでいった
護国の英霊の労苦を労いなさい、
遺族の労苦を労いなさい、
産業戦士の労苦を労いなさい」
――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。

最初の地は広島でした。原爆の地、広島でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。
ご行幸、広島s
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。
ご行幸福井
陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました
(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…」
(歩一〇四記念講演特集号より)
貞明皇后 1
昭和天皇の戦い 加瀬英明 昭和天皇皇后のスリッパ04




日本は愛情主義の国


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