「人間とは一体何だろう?」
この疑問に対する答えに飢え乾いている者がいるなら
もし明快な回答が得られれば、その人生は、そこから真のスタートが切れる。
この問いかけは有史以来の哲学的疑問だ。
人間が何者であるかが分からないまま、人間の構成する家庭や社会、歴史について分かろうとすることは初めから無理な話と言える。
永い間、人間は弱肉強食が横行する時代を通過してきた。いや、それは、今なお、続いている。
「人間は野獣である」と誰かが主張すれば、「なるほど」と納得の行く場面をいくらでも発見することができる。
日本民族全体を対象に人体実験を平気でやってのけ、悪びれる事もしないアメリカ
これら大量殺りくを行った者達にも
赤ちゃんの時代があったし、青年時代もあった。
彼らには特別な牙が用意されているわけでもないし、頭に角が生えているわけでもない。
どこから見ても一人の人間なのに、どうしてそんな恐ろしいことができるのだろうか。
そもそも、戦争は人間を殺すことを目的として出かけるのであって、
ライオン狩りに出かけるわけではない。
大量虐殺の話を聞けば、「人間としてどうしてそんなことができるのか」と多くの人が理解に苦しむ。
しかし、このような虐殺事件は今も昔もあった。目新しい事でも、珍しい事でもない。
新型コロナ騒動の発端は、武漢ウイルス研究所で人工的に造られたと
今年になりアメリカが言い始めた。
しかしその資金を提供していたのは、アメリカである。
ウイルス感染者や死者数を作為的に多く見せ、世界を恐怖で覆って来た悪巧み
は多くの人の知るところとなった。
その目的も、監視&支配構造を構築する目的である事も、
更には特効薬の開発&承認をワザと遅らせ、ワクチン製造会社が大儲けした事も
周到に準備を重ねて、今シナリオ通り実行している。
彼らにとり、マルサスの「人口論」や優生学に基づく人口削減は「正しい」
ファウチ博士も実働部隊にすぎない。
その観点から、コロナワクチンは治験中ではあるが、今迄何度も『実行』してきた『完成品』なのだ。
確実に『成果』は出ている。
ワクチンは、確実に人口削減の「効果」があるのは、
南アフリカのアパルトヘイト政策「沿岸計画」でも、
ナチスに莫大な資金を提供し、ロックフェラー財団らが強力に推し進めた優生学に基づく「人口削減」など
過去何年も遡り、既に実証済みなのだ。
そのナチスのシナリオを描いたのが、イエズス会。
優生学の為に設立した「ローマクラブ」はそのローマでの会議から始まった。
目的は明白だ。
問題は、
日本人が、一番狙われていること。
さて、
歴史にはこのような事実がぎっしりと詰まっている。
大きな事件も小さなもめごとも、その本質は変わらない。
一体、人間はどうしてこのようなことができるのだろうか。
体の病気なのだろうか、脳の病気なのだろうか、心の病気なのだろうか。
いや、それともこれが人間の本当の姿なのだろうか。
ライオンに説教して、「動物を食べるのを止めて草で生活してくれ」と要求できるだろうか。
草食生活をライオンの本質とするように説得できるだろうか。
まず不可能に近いだろう。
なぜなら、ライオンは生まれながらに肉食を本質としているからだ。
人間に対して、どれほど多くの説教がなされただろうか。
争うな、嫉妬するな、盗むな、殺すな、広い心で愛し合いなさい、助け合いなさい・・・。
あるいは哲学者、あるいは宗教家が、人間を少しでも高めようと大昔から人間に向かって叫び続けて来たことは事実だ。
孔子も、釈尊も、イエスも、マホメットも人間社会を平和にしようと叫び続けた。
今なお多くの人に、心の師として大きな影響を与え続けている。
彼らの叫びから既に千年単位の時が流れた。今や、コンピューター時代となり、インターネット時代となり、宇宙時代となった。しかし、人間の姿はどれほど進歩したのだろうか。
人間の殺意を実行するのは手であり足である。
その手に刀が握られていれば、切り殺すという行為が姿を現す。
その手に、機関銃が握られていれば、瞬時に多くの生命が奪われる。
その手に核兵器があれば、恐るべき大量殺人が瞬間の内に発生する。
心の中に潜む悪意が科学技術の発展に伴ってそのスケールを際限なく広げて来たのである。 悪意は同じでも、その影響範囲は技術の発達とともに広がってきたのだ。
悪いことをしたという認識はみじんもないのだ。悪意か悪意でないのかの判断にも深い洞察が要求される。
「人間は、ライオンと同じように弱いものを見つけたら襲い掛からずにはおれない存在である。」と定義してよいのだろうか。
進化論は教えている。「生き残りに成功したものだけが次の時代の支配者になれる。だから、生き残ることが最優先されるべきであり、それが正義である。」と。
そこには策略も、うそも、謀略も許されることが暗に示されている。
人間とは一体何か?
人間の本質は悪なのか?
人間は生き残ることに意味があるのか?
力ずくの正義がすべてを凌駕するのだろうか。
人間らしさとはどこにあるのだろうか?
もし、「人間は野獣のようなものである」、いや、「野獣よりも始末の悪い存在である」という定義が正しいなら、無駄な平和運動は止めるべきであり、野獣として野獣らしく生きることを考えなくてはならない。弱いものを見つけては襲い掛かる人生こそが本質に一致した生き方に違いない。
動物の世界では、だましが一つの生き残り戦略となっており、強いものが弱いものを支配するということが前提となっている。
「人間は動物とは違う」と片方で主張しながら事実は、「動物にも劣ることがあまりにも多い」。
蜘蛛は巣を張るが、その糸は透明となっている。
見えないようにだましている。敵をだまそうとする戦略は数えきれない程である。
さて、再び問う。
人間とは一体何だろう?
人間の本質とは何だろう?
再び繰り返そう。
「人間は野獣である」という定義が正しければ、戦争を肯定しよう。
狩りをしないライオンはいないのだから。
うそも、だましも積極的に活用しよう。動物の世界では常識のことだから・・・。
人間は動物の延長に位置しており、だましも、うそも、弱肉強食も生きる戦略として致し方ないという結論も一見説得力があるように見える。
人間の歴史において、暴虐極まりない醜い歴史が大半であったことは事実として認めざるを得ないが、もう片方において、それでも、それでも人間を人間としてあるべき姿に戻そうと生涯をかけた人たちがいたこともまた事実である。
俗人の大海の中で、聖人として誰もが称賛せざるを得ない生き方を貫いた数少ない人たちがいたことも事実なのだ。 公的な幸せの為に、自己を犠牲にしながらも感謝で尽くした人たちは、そのレベルにおいてあるいは偉人、あるいは聖人として歴史に名を残して来た。
公的な幸せの為に、自己を犠牲にしながらも尽くした人と、自己の利益の為に他人を犠牲にした人と、はたしてどちらが人間の本当の姿なのだろうか。
どちらが人間の本質に即した生き方なのだろうか?
極と極の相反する生き方を目の前にしながら、「人間とは何か」の基本的見解をどこに置くべきかを模索した。 この見解を広く世に問いたいと思っている。
今、世界は言うまでもなく、日本もまた未曾有の混乱の時期を迎えている。戦後の日本には明確な目的があった。惨めな状況から如何に脱却するかを求めて、一心不乱に走ってきた。それなりに、達成感を得た。そして今、今後の日本はどこに行くべきかを模索している。
日本は作為的な少子化促進政策によって高齢化社会はどんどん進み、少子化は日本の未来に暗雲となっている。
世界が抱える課題の根本は
人間社会の基本である「人間そのものが一体何か」が不明なままであるということが問題の根底にある。
基本をあいまいにして何かを築いたとしても、その結果もまたあいまいなものになるのは必然だ。
心ある方々の真摯な探求を願う。
人間とは何か、
社会とは何か、
歴史とは何か、
“そもそも”の疑問
を共に究めようではないか。