(西村眞悟氏の時事通信より)
【重光葵】
アメリカ戦艦ミズーリ号上の降伏文書調印の全権。
彼は降伏文書に次のとおり、署名している。
「大日本帝国天皇陛下及日本国政府の命に依り且其の名に於いて 重光葵」
 鈴木内閣のあとを受けて、昭和20年8月17日に発足した東久邇宮内閣の外務大臣に就任したのが、重光葵である。彼には降伏文書調印の全権としての任務が与えられていた。彼は、明治20年に大分県に生まれた。片足を付け根から失った外交官であった。
 昭和7年4月29日、重光は上海において、駐中華民国公使として天長節を祝う式典に参列し、国家を斉唱していた。そこに爆弾が投げられた。重光はそのまま歌い続け爆弾の爆発により片足を失った。重光は言う。
「爆弾が投げられたのは分かっていたけれど、国歌斉唱中なので動かなかった。動くのは不敬であると考えた」
今の者なら全員、爆弾から逃げる。逃げなかった重光は、とてつもない男ではないか。重光はその後、負傷を負う身で上海事変の停戦協定にサインするが、この行為をイギリスのランプソン公使は、「にくいほど勇敢な我々の友」と絶賛している。
 その後、重光は東條英機内閣の外務大臣となり、大東亜会議を開催して大東亜共同宣言を発し、 大東亜戦争の目的を
「アジア解放」
と位置づけた。
そして、自ら「アジア解放」と位置付けた戦争の降伏文書調印の全権となるのである。
 全権に就任した重光は、まず天皇に内奏する。 そして8月28日、伊勢神宮に向かう。 重光は神宮で全霊を込めて祈り、「渾身の意気と忠誠をもって降伏文書調印の大任に当たらんと誓った」。 そして、9月2日午前9時、重光はモーニングにシルクハットの姿で、戦艦ミズーリ号のタラップを陛下から下賜された義足を引きづり、登った。 戦艦ミズーリ号
 このようにして重光は降伏文書の調印を終えるが重光のマッカーサーとの本当の戦いは、降伏により陸軍が武装解除されてから始まった。
重光は、連合国最高司令官司令部が占領下に入った日本で「軍政」を敷こうとするや、その司令部に乗り込み、マッカーサーに一歩も退かずに直談判して、遂に軍政をやめさせている。
戦時中の徹底抗戦派ほどマッカーサーを恐れ、従順なイエスマンになっていたこの時期、マッカーサーに噛みつきに行くなど、重光でなければできないことだった。
 重光には、
『大東亜共同宣言で示した日本の
<諸民族の共存共栄と、人種差別撤廃を掲げた戦争目的>が、
ルーズベルトやチャーチルが太平洋憲章で示した
<白人の為だけの戦争目的>
よりも遥かに普遍的な価値を持つ』
との強い自負があり、
同時に外交官として、日本は戦争に負けはしたがポツダム宣言の範囲で
条件降伏>したのであるから
ポツダム宣言を超える命令は断じて許してはならない
との信念があった
(西村眞悟氏)