いっこうに上手くならない、、、
いくら鈍感な私でも自分に才能のない事にようやく気付いた。
嘘のようにボールがラケットの芯にスパッ!と当たった!!
どうやら偶然ではない事がその後分かった。
スーッ!と真っ蒼な空へ抜け出た感覚・・・
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我欲主義世界が鉛の雲のように人類歴史を覆ってきました。
日本の愛情主義精神です。
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(再投稿します)
アメリカを牛耳る勢力の悪辣さを指摘していたカダフィ大佐が生前日本に対し
広島、長崎に原爆を落とした米軍を日本に駐在させていることを嘆き
「あなた方はなぜ、自分たちの祖父たちを殺したアメリカと仲良くできるのか。」
と言っておられました。
これは素晴らしい日本の国民性もあるのですが、
アメリカが戦後日本人に仕掛けていた転覆(=工作用語)(国家破壊工作)というのがあります。
国際金融資本が人工的に造った「ソ連」の元KGB役員が40年ほど前
ロサンゼルスで行った講義(1983年)です。
----- ----- ざっくり要点(一部) ----- -----
スパイの表の顔は
留学生、外交官、俳優、アーティスト、ジャーナリストなど…です。
スパイが行っている8割以上は、「転覆(国家破壊工作)」です。
■例えば、日本を例に挙げると(2:06-)
以前、日本は閉鎖的な社会でした。(鎖国)
外国船が日本に入港すると、日本の武士は礼儀正しく言います。
・・・「失せろ」
もしアメリカのセールスマンが日本の港に行っても
「素晴らしい掃除機を持ってきました。ローンも組める」
と売り込むと
「要らぬ。お帰りなさい。」と言われるでしょう。
もし立ち去らねば、斬ります。
日本文化、思想、伝統、価値観を護る為に
日本を(外国の汚れによって)転覆させるわけにはいかない。
国境が閉鎖されているのです。
最も賢い戦術とは「一切、戦わずして敵国のあらゆる価値観を転覆させること」
です。
(日本人の)頭をポンコツにして敵(米国)を敵と認識できなくさせる迄ね。
「自国の文明や政府よりも敵国の方が良い、望ましい」
と認識させる迄です。
「死ぬよりマシだろう」
これが「転覆」の最終ステージであり、究極目標です。
「銃弾を一発も使わずに敵に勝つ」
これが出来れば(日本の)転覆は成功です。
これが基本的な「転覆」の概念です。
「転覆(国家破壊工作)」の第一段階、それは「堕落」
社会を堕落させるには15~20年かかります。
何故か?
これが一世代を教育するのに要する時間だからです。
勉強、外見、思想、人格を形成するのに要する時間です。
①
宗教
②
教育
③
社会生活
④
権力構造
⑤
労働者支配
⑥
法と秩序
…この六つの分野を「転覆」の為に利用する。
具体的にどうしたか?
~~~ 詳しくは動画をご覧くださいm(_ _*)m
【ご参考】対日心理戦戦略計画<暗号名:パネルDジャパン>
日本人への改造計画
「日本は悪い国、アメリカは正義の国だ」
と日本国民を洗脳するのに成功
1951(昭和26)年11月から、トルーマン大統領指令による「パネルDジャパン」という対日心理戦が実施された。
日本のあらゆるメディアを使って、反米感情を抑える事を目的にした、洗脳的情報操作である。
ジョンMアリソン駐日大使を委員長に、映画・テレビ・ラジオ・出版等メディア制作の補助金の名目で約180億円の予算が投入され、PSB(心理戦略評議委員会)がその任務を担当した。
中等修身教科書 巻四
第三課 偉大なる自己
各自の経験・教育・修養等によりて、自覚の進むに随い、自己の内容も亦拡張されるものなり。
最も小さな自己を有するものは、一身の安逸を貪り、口腹の欲を充たすを以て満足すべきも、苟(いやしく)も教養あるものは、斯かる低級なる自己に止まる能わず
少なくとも自己の家族の幸福を希い、
父母兄妹の禍福を以て直ちに自己の禍福と感ずるに至るべし。
是れその自己が家族大に拡張せられたるものにして、換言すれば、
自覚の進歩によりて家族の中に真の自己を発見したるものなり。
この自覚が一歩を進める時は、その自己は家族内に止まらずして社会的に拡張せらるべし。
社会には大小広狭種々ありて、各人の自己拡張の範囲にも亦無数の差等あり。
近隣又は一町内の利害を以て直ちに自己の利益となす者あり。
或いは一地方の休戚(きゅうせき:喜びと悲しみ。幸と不幸の意)を以て自己の休戚となす者あり。
或いは国家の盛衰隆替を以て自己の責任となすものあり。
或いは世界人類の幸不幸を以て、一身の幸不幸以上に痛切に感ずるものあり。
これ等はそれぞれその自己が地方大に国家大に及至人類大に
拡張せられたるものにして、身を殺して国家又は人類の為に尽すものは、
国家又は人類の中に真の大なる自己を発見したるものなり。
之を時間の上より見るも、低級の人は僅かに眼前の快苦を思うのみなれども
教育ある者は過去を回想し未来を翹望(ぎょうぼう: 《「翹」は挙げる意》首を長くのばして待ち望むこと)し、その自己は過去及び未来に迄拡張せらるべし。
かくして遂に現代の社会の幸福を念とするのみならず、
遠く祖先の偉業を思い、遥かに後世子孫の幸福を願うに至るべし。
この境に至る時は、その人は宇宙大にして且つ永遠的なる自己を発見したるものにして、
真に偉大なる人格というべし。
苟(いやしく)も志を立つる者は、眇小(びようしよう:小さい)なる一身の利害に拘泥(こうでい:こだわる)せず、
一時的の快楽に悩まされず、須(すべか)らく偉大なる人格者たらんことを期すべきなり。
今、統一教会の霊感商法の被害者を救済する為に、政府が法務省などと連携し、電話相談を受け付けているそうですね。
電話はひっきりなしにかかってきているとのことです。
私は引っかかる被害者の側にも、責任があると思うのですね。
地上で詐欺師の人は、死んで霊界(があるとして)に行っても詐欺師です。
我欲に生きた殺人犯も皆、霊界に行けば、誰もが仏様になるなんて、あり得ないでしょう。
仮に、霊界がらみで起こる不思議現象があるとして、
それは悪霊の巧妙な罠の仕掛けだと捉えるようにすべきと思うのですね。
「幸福の科学」もそうですが、多くの宗教の教祖は霊界がらみの神通力、
霊界の作用を根拠として人を集めています。
統一教会も、霊能者(?)が、「先祖の霊ガ~」と言って
壺をボッタクリ価格で売りつけているようです。
集まっている人たちは、教理に納得してというよりも不思議さとびっくりと霊界に対する恐れとが重なって信者となっているように思います。
しかし
霊的なものを判断の根拠としては危険です。
そういうものを信じてしまえば、後は悪霊の思うまま操られるでしょう。
と聖書にあるように、
最初は素晴らしく思えたことが途中から悪霊に変わることはいくらでもあります。
とにかく、霊界を主体として物事が動くようになったらおしまいです。
それでことが片付くなら、霊界に行かれたイエスや釈尊は
霊界からどんな事も出来る筈です。
「わたしは、また来る」と約束される必要はありません。
幻や霊言で何かを聞いたり語ったりすると凄い事であるかのように思わるのですが、
それがそもそもの間違いだと思うのですね。
もし霊界があるとするなら、その霊界を神さまは、最高に便利な世界として創造されたでしょう。
それに比べ、地上世界はとても不便ですね。
それでも地上世界でしかできない目的があるのだと確信します。
人間が責任を果たし、愛の人格を完成させる為に、わざわざ不便な地上世界があるのだと!
地上生活は五感生活であり霊感生活ではありません。
人間には耳があり口があります。
これらはあくまでも、人間と人間は音声を媒介として耳で聞いて口で語って
愛を完成させなさい
という神さまのご計画があってのことと思うのです。
この五感の全てを駆使して愛の人格を育み完成すれば
天国で神さまが迎えて下さるのではないでしょうか。
┃霊界には失敗者しかいない
仮に本物の釈尊が霊界からある人に何かを伝えたとして、
どうしてそれがすごいことでしょうか。
このようにイエスは言われ、天国の鍵を弟子のペテロに預けました。
地上で完成してこそ、霊界の完成があるのであり、その逆ではないんですね。
倫理道徳で四大聖人について学びました。
もしその聖人達が生前目的を成就し、完成して霊界に移動したとすれば
既に地上に理想の世界はできているはずではないでしょうか。
「わたしはまた来る」と言い残して、残念な思いで霊界におられるとすれば、
一体何を霊界に期待すべきなのでしょうか。
地上で生きる私たちは
その聖人たちが成し遂げられなかった使命を託された立場であり、
霊界に依存してはいけないのだと思います。
人間の人間たる所以は
「最終責任は私が背負う」という腹をもって一切誰にも依存せず
自らの責任で人格を完成させることです。
霊的なものに依存し、霊現象に右往左往されたら、その時点で
一度しかない自分の人生を放棄した失敗者だと思うのですね。
霊感商法に騙されない私たちになりたいと思います。
第十二課 小さなねぢ
暗い箱の中にしまひ込まれてゐた小さな鉄のねぢが、不意にピンセットにはさまれて、明るい処へ出された。ねぢは驚いてあたりを見廻したが、いろいろの物音、いろいろの物の形がごたごたと耳にはいり目にはいるばかりで、何が何やらさつぱりわからなかつた。
しかしだんだん落着いて見ると、此処は時計屋の店であることがわかった。自分の置かれたのは、仕事台の上に乗つてゐる小さなふたガラスの中で、そばには小さな心棒や歯車やぜんまいなどが並んでゐる。きりやねぢ廻しやピンセットや小さな槌やさまざまの道具も、同じ台の上に横たはつてゐる。周囲の壁やガラス戸棚には、いろいろな時計がたくさん並んでゐる。かちかちと気ぜはしいのは置時計で、かつたりかつたりと大やうなのは柱時計である。
ねぢは、これ等の道具や時計をあれこれと見比べて、あれは何の役に立つのであらう、これはどんな処に置かれるのであらうなどと考へてゐる中に、ふと自分の身の上に考へ及んだ。
「自分は何といふ小さい情ない者であらう。あのいろいろの道具、たくさんの時計、形の大きさもそれぞれ違つてはゐるが、どれを見ても自分よりは大きく、自分よりはえらさうである。一かどの役目を勤めて世間の役に立つのに、どれもこれも不足は無ささうである。唯自分だけが此のやうに小さくて、何の役にも立ちさうにない。何といふ情ない身の上であらう。」
不意にばたばたと音がして、小さな子どもが二人奥からかけ出して来た。男の子と女の子である。二人は其処らを見廻してゐたが、男の子はやがて仕事臺の上の物をあれこれといぢり始めた。女の子は唯じつと見まもつてゐたが、やがてかの小さなねぢを見付けて、
「まあ、かはいゝねぢ。」
男の子は指先でそれをつままうとしたが、余り小さいのでつまめなかつた。二度、三度。やつとつまんだと思ふと直に落としてしまつた。子どもは思はず顔を見合はせ。ねぢは仕事台の脚の陰にころがつた。
此の時大きなせきばらひが聞えて、父の時計師がはいつて来た。時計師は、
「此処で遊んではいけない。」
といひながら仕事台の上を見て、出して置いたねぢの無いのに氣が附いた。
「ねぢが無い。誰だ、仕事台の上をかき廻したのは。あゝいふねぢはもう無くなつて、あれ一つしか無いのだ。あれが無いと町長さんの懐中時計が直せない。探せ、探せ。」
ねぢは之を聞いて、飛上るやうにうれしかつた。それでは自分のやうな小さな者でも役に立つことがあるのかしらと、夢中になつて喜んだが、此のやうな処にころげ落ちてしまつて、若し見附からなかつたらと、それが又心配になつて来た。
親子は総掛かりで探し始めた。ねぢは「此処に居ます。」と叫びたくてたまらないが、口がきけない。三人はさんざん探し廻つて見付からないのでがつかりした。ねぢもがっかりした。
其の時、今まで雲の中に居た太陽が顔を出したので、日光が店一ぱいにさし込んで来た。するとねぢが其の光線を受けてぴかりと光つた。仕事臺のそばに、ふさぎこんで下を見つめてゐた女の子がそれを見付けて、思はず「あら。」と叫んだ。
時計師は早速ピンセットでねぢをはさみ上げて、大事さうにもとのふたガラスの中へ入れた。さうして一つの懐中時計を出してそれをいぢつてゐたが、やがてピンセットでねぢをはさんで機械の穴にさし込み、小さなねぢ廻しでしつかりとしめた。
龍頭を廻すと、今まで死んだやうになつてゐた懐中時計が、忽ち愉快さうにかちかちと音を立て始めた。ねぢは、自分が此処に位置を占めたために、此の時計全体が再び活動することが出来たのだと思ふと、うれしくてうれしくてたまらなかつた。時計師は仕上げた時計をちよつと耳に当ててから、ガラス戸棚の中につり下げた。
一日おいて町長さんが来た。
「時計は直りましたか。」
「直りました。ねぢが一本いたんでゐましたから、取りかへて置きました。工合の悪いのは其の為でした。」
といつて渡した。ねぢは、
「自分もほんたうに役に立つてゐるのだ。」
と心から満足した。
(おわり)
目指せ!教育大国日本