米国議会に於けるゼレンスキー演説「真珠湾攻撃を思い出してほしい」
日本人としても「米側の思い」を知るのはとっても大切だな…と思いました。
同時にまた、当時アジア解放と祖国を護る為に立ち上がり、尊い命を捧げて下さった日本人にも思いを馳せてみたい思います。
【1】日本の先人の思い
開戦当時の日本人の心情(動機)は結果を見れば明白です。
先ずは、大東亜戦争に至る迄の時代的背景を知らねばなりません。
以下数年前、西尾幹二先生の「焚書図書開封」(YouTube削除されています)を学び,執っていたノートを参考に書きます。
★GHQ焚書図書「國際聯盟とは何だったのか_大東亜戦争調査会」より。
以下、抜粋
この満州事変に最も妨害工作をなしたのは国際連盟であった。
1931年9月21日支那政府から正式(…)があって以来、翌々年の1933年3月27日、我が国が連盟脱退に至る迄の間、終始一貫して対日妨害工作に狂奔したのである。その反日態度は
第一には
国際紛争の平和的解決という理想主義的立場から見ても、返って事件を拡大する結果に陥り、不見識の謗りを免るべくもなく、
第二には
公平な態度で国際紛争に善処する筈のものが
徹頭徹尾片手落ちな援支反日の態度を変えなかったことも、
連盟の根本趣旨から見て矛盾撞着も甚だしいものと言わざるを得ない。
また第三には
現実政治論から見ても、日本をして連盟脱退を余儀なくせしめたことは
連盟の世界勢力としての威信を傷つけたことになり、実質的な利害を無視したものである。
連盟のとった態度は、右の所見から見て全く支離滅裂といわざるを得ない。
(略)
そもそも連盟内部に於ける日本と蒋介石政権との地位及び世間的評価を比較してみても
蒋介石政権は初めから連盟の善良なるメンバーではなかった。
幾多の連盟規約違反の行為が度重なっていた。
いわば国際的無頼漢ともいうべき、蒋介石政権のやり口に終始していた。
中でも最も目立った特異な点は、数か年に亘って連盟の会費を滞納して、恬(てん)として憚らなかったことだ。
従って満州事変前に於いては、連盟内部では蔣政権と言えば不良メンバーの代表的なものとされ、悪行の的になっていた。
これに反して日本は
イギリス、フランス、イタリアと並んで常任理事国として忠実に義務を履行するという消極的な部分だけではなく、積極的にもあらゆる面に於いて連盟陣営に全面的協力を惜しまなかった。
いわば模範メンバーで、同じ東洋からの連盟参加ではあるが日支両国は、宛然、善悪両極端の典型的メンバーの如きを呈していた。
これは当時連盟事務局の所在地ジュネーブに於いても、パリやロンドンに於いても
連盟関係者が異口同音に発する言葉であった。
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(西尾幹二氏の解説)
「そうだったと思いますよ。
日本人は大人しいし、紳士的だし、アコギな事は言わないし、しないし、お金はちゃんと払うし…それなのに、虐められたんだよ。。。。
何故だろうね?これ、謎だよね、本当に。。。
今、我が国に迫っている運命だって、似ているんですよ。
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然るに一度満州事変が連盟の(…)に上るや、連盟の態度は終始一貫して
反日援支の手を緩めなかった。
その理由は(…)にあるか?
これは誰が見ても支那が連盟の大事なメンバーであるから、という理由に依るものでないのは明らかだ。
いわんや日本の連盟脱退という危険が目の前に迫っていたに於いてはおやである。
連盟が日本を失うことは連盟の世界性を失う事であり、ひいては再び世界大動乱の
緒口となる懸念すら尠(せん:少ない)しとなる当時の情勢であったのだ。
これに想到すれば、連盟のとった徹底的な援支・反日の理由は連盟の表面だけを見たのでは何人にも理解できないものである。
連盟の真の正体を衝き、その内部のカラクリを見なければこの不思議な態度は氷解できないないのである。
----- ----- 抜粋、ココ迄 ----- -----
以上、日本が置かれていた状況の中で、既に真珠湾攻撃以前から、アメリカから上図のような戦闘行為を、宣戦布告無しに受けていました。
【2】米側のキモチ
次にゼレンスキーさんが「思い出してほしい」と訴えかけたアメリカ人はどうだったかを一次史料から確認します。
●ルーズベルト政権での陸軍長官ヘンリー・スティムソン
彼は真珠湾攻撃の約二週間前の日記にこう記しています。
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(1941年11月25日)
「当面の問題は、我々があまり大きな危険にさらされることなしに、
いかにして日本側に最初の攻撃の火蓋を切らせるような立場に彼らを追い込むか!
ということであった。これはむずかしい命題であった」
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( Stimson diary, November 25, 1941)
差し迫った日本との戦争の証拠について議論するために、ルーズヴェルト大統領に会った。問題は、
『我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか』
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(真珠湾攻撃の一報をルーズベルトから受けたスティムソンの日記)
「パールハーバーのニュースを聞いたとき(略)
安堵(relief)の気持ちだった。」
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●アメリカ無線監視局の局長ジョセフ・ロシュフォート
(この頃アメリカは日本に対し全面的禁輸措置をとり、これはいわゆる最後通牒というべきものでした。これについてアメリカ無線監視局 ロシュフォート局長は以下のように述べています。)
「われわれは彼らの資金も燃料も貿易も断ち、
日本をどんどん締め上げている。
彼らには、この苦境から抜け出すには、
もう戦争しか道は残されていないのがわかるだろう」
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当時「彼ら」チャーチル、ルーズベルト、ハリマンそして、他のスーパー・パワー・エリート達も共通していたのは皆さん苦しんでおられたということです。
そう!「戦争したいのに」日本の中枢は、総力戦を避けようとする、
アメリカの思う様に動かない日本に対しヤキモキする様子が窺えます。米側は様々な策謀を巡らせ、実行しました。
■米国が描いた台本「真珠湾奇襲」
ルーズベルトも日本に中国経由で宣戦布告無しで戦闘行為(上図「宣戦布告なしに…」)を企んだり、
経済封鎖など散々日本を痛めつけていたのに…日本は忍耐強い。
米側は苦心していたのです。
そうして漸く、米国側が操っていた日本の左翼勢力が要望に応えてくれました。
1941年12月7日(アメリカ時間)、日本の真珠湾攻撃のニュースが入りました。
●チャーチル
当時ロンドンでチャーチルと会談していたアヴェレル・ハリマンの証言です。
会談の場に真珠湾攻撃の一方が入った時、
「『非常に長い苦しみから解放されたようだ』と
チャーチルが電話でルーズベルトに話していた」
と。この証言は有名な話です。
「とにかく日本が真珠湾攻撃してくれてホッとした」と喜んだそうです。
●アメリカ商務長官から外交顧問になったハリー・ホプキンス
「真珠湾攻撃は、かけがえのない贈り物だった」
以上当時の様子を思い起こしてみました。