アメリカは原爆を正当化する為のプロパガンダを常に日本に仕掛けています。
当然アメリカ国民への歴史教科書の反日捏造歴史は、中韓に引けを取りません。
この洗脳教育を受け、自ら真理を探究しないアメリカ人は
洗脳されたままオトナになります。
しかし史実はこうです。
大東亜戦争とは
アメリカが日本を征服する為の
侵略戦争であった。
アメリカでは、50年経つと公文書が公開されます
戦後50年経った1994年
米政府が公開したのがオレンジ計画です。それによると…
アメリカは日本を征服する目的で
日中戦争も、中国の背後で中国を操っていたのはアメリカです。
日中戦争の首謀者はアメリカでした。
アメリカが宣戦布告無しに日本に戦争行為をしたのが、日中戦争です。
トランプが『卑劣な』真珠湾攻撃と言っているが
卑劣なのは、アメリカです。
我が国はそれに対し当然の「反撃」をしたのです。
当たり前ですが…日本軍に宣戦布告などは不要である!
田母神俊雄 元航空幕僚長
「一方的な国家間の友好関係の破棄がある以上、
真珠湾攻撃は宣戦布告無しでも合法である。」
安倍談話を作成した時、
その作成メンバーのお一人であった京都大学の中西輝政教授は
「安倍談話の内容は、村山談話と殆ど変わらない。
東京裁判史観を踏襲したものだ」
と言われ、抗議の辞任をされました。
村山談話も、安倍談話も
真実の歴史を元に、書き換えられるべきです。
正しい歴史認識を持ち、真の主権を取り戻しましょう!
~~~ (参考) ~~~
そもそも毛沢東も、オレンジ計画にそって
アメリカが日本を攻撃させる為に育てた。
毛沢東などは麻薬の売人であり、自身も麻薬中毒者だったのです。
(以下、「週刊新潮」に連載された高山正之氏のコラム「変見自在」より)
米国は十九世紀末、日本封じ込めの一環としてフィリピンを植民地にした。
米国支配を嫌う原住民はみな殺しにした。
米国の自己申告では「殺した地元民は二十万人くらい」(上院公聴会)という。
米国は恐怖で屈服させたフィリピン人に今度は銃を持たせて訓練した。日本軍がきたとき彼らを米兵の盾にして戦わせるためだった。
四十年後、予想通り日本車四万余がリンガエン湾に上陸した。
マッカーサー以下三万人の米軍は十二万人の現地兵を盾に戦ったが、殲滅されてしまった。
この戦いを日本軍は「米軍と戦った」と記録する。
戦ったのは半分以上現地兵だったが、「フィリピンと戦った」意識はない。
マレー半島では日本軍は英印軍十万をやっつけてシンガポールを落とした。
この戦いも日本はあくまで英国と戦った。
英軍の前衛はインド兵だが、インドと戦ったつもりはない。
日本は中国大陸でも戦った。そこの中国人とはかつて日清戦争で戦った。
その後は彼らを日本に留学させ、国造りを支援したが、あるときから彼らは反抗的になった。なぜかは中国だけ見ていても分からない。
たとえば米国を見る。
この国は日本が日露戦争に勝つとすぐ北京に清華大を建て、日本に流れる留学生を顎足つきで米国に誘った。
米国から戻ってきた留学生は蒋介石につき、米国の意向に副った反日政策を遂行した。
孔祥煕や胡適がその代表格で、とくに胡適は「米国を引き込め」と盛んに蒋介石に吹き込んでいる。
日本を潰さないとアジアの利権が危うくなると欧米諸国は認識していた。
それでドイツは中国陸軍を強くして日本にぶつけた。それが第二次上海事変だ。
米国は中国に空軍を持たせて日本を叩くことを考えた。
操縦は難しいが、歩兵がやっとのフィリピン人よりまだ中国人は使えると思ったからだ。
で、第一次上海事変直後に米国は抗州に飛行学校を作り、教官にクレア・シェンノートらを派遣した。
その成果が第二次上海事変だった。
日本軍はドイツ製の火器やトーチカ群にてこずったが所詮、中国軍は中国軍だった。
二十倍の兵力でも殲滅されてしまった。
米国が養成した中国空軍はもっとお粗末だった。
黄浦江にいた巡洋艦「出雲」をカーチス・ホークHとノー・スロップ爆撃機で襲わせたが、三機が撃墜され、二機は「出雲の弾幕が怖くて」(ジョン・パウェル『在支二十五年』)適当に爆弾を落とし、外灘にいた中国人ら数百人を殺した。
ウースン付近では中国空軍機が英巡洋艦を間違って爆撃したが、この中にシェンノートもいて危うく撃ち落とされそうになったと自伝にある。
中国人の操縦下手にルーズベルトも呆れ、
米軍操縦士に中国人を装わせて飛行機を飛ばすことになる。
世に言う「フライング・タイガー」がそれだ。
そのころにはドイツが手を引き、米国が代わって中国地上軍の強化も担当した。
つまりここもフィリピンと同じに
米国が装備から訓練まで面倒見て、中国兵を米軍の代りに日本軍と戦わせた。
それが見える形になったのが援蒋ルートの要衝、龍陵の攻防戦だった。
そこで戦った五十三師団の平田敏夫と現地を歩いた。
「中国兵は三日攻撃し三日休んだ。指揮する米兵の休暇に合わせていた」
「二万の中国兵が我々の守る山に取りついた。十分引き付けて撃った。
見る間に彼らは死体の山を築いた
浮足立つ中国兵に後方から米兵の「突っ込め」という声が聞こえ、
軽機銃の発射音が続いた。督戦隊が逃げる兵を撃つ音だった。
霞が晴れたとき、遠くに白マント姿の米兵を平田は見た。
「米兵は一個中隊に一人がついていた。中国兵はほとんど子供だった」。
米軍は子供でも鉄砲は撃てることを知っていた。
龍陵にはここで戦死した米兵二十八人を祀る記念館があり、
中国で日本は米国と戦った。
蒋介石も毛沢東も単に現地兵の番人だったのだ。
(週刊新潮 二〇一二年五月三十一日号)
--- --- 引用おわり 高山正之氏「変見自在」 --- ---

